大倉財閥特設ページ

大倉財閥の創始者、大倉喜八郎

当社の歴史は大倉喜八郎へとつながる
 当社の歴史をたどると、1964(昭和39)年まで西戸崎にあった西戸崎炭礦株式会社にゆきあたります。当社は西戸崎炭鉱株式会社が社名を変更した会社です。
 その西戸崎炭礦株式会社は、大倉財閥の中核企業であった大倉鉱業が福岡の大手炭鉱会社だった明治鉱業と共同で1938年に設立した会社です。
 日本の資本主義勃興期に、その一角を占めた財閥、大倉財閥とその創始者、大倉喜八郎へとつながる歴史に当社のバックボーンがあります。

大倉喜八郎
(所蔵:国立国会図書館)

大倉喜八郎の生涯

封建社会に嫌気がさし、新たな生き方として商人を志す。
 大倉財閥の創始者、大倉喜八郎は1837年、越後国蒲原郡新発田町、現在の新潟県新発田市に生まれました。
 1854年、17歳の喜八郎は、友人の父親が「下駄をはいたまま武士に挨拶をするとは無礼である」という理不尽な理由で、仕事である酒屋の営業を差し止められたことに憤慨。「もっと広い世界で生きたい」との想いを胸に、江戸に出ることを決意しました。
 江戸に出た喜八郎は、塩もの商いの手伝いや、鰹節店での丁稚見習いを3年あまり経験。そこで貯めた資金を元手に鰹節商、乾物商を始めます。しかし、喜八郎はいつか商機を見つけ、もっと大きな仕事をしたいと考えていました。
 そんなある日、ビジネスチャンスを見つけようとふらり訪れた横浜で、外国船から降ろされる洋式の鉄砲を見たことで時代の大転換を悟ります。
 「天下が一変する時には、必ず騒動が起こる」
 これからの動乱を見越したのか、喜八郎は鉄砲店に見習いとして入ります。そして、僅かな期間で新式の西洋銃を扱う鉄砲商として独立しました。

イタリア人写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した1865年頃の江戸の街並み

鉄砲商から大倉財閥へ
 1868年、戊辰戦争が始まります。喜八郎は鉄砲商として、旧幕府側とも新政府側とも取引を行い縦横無尽に活躍しました。
 戊辰戦争を経て鉄砲商としての足場を確かなものにした喜八郎は、1872年、35歳の時、莫大な費用を要した海外視察を自らの資金だけで行いました。そして、旅先のヨーロッパで岩倉遣欧使節団の大久保利通、木戸孝允(たかよし)、伊藤博文ら、明治政府の中核メンバーと意見交換する機会を得ました。 
 この出会いを通じ、海外との貿易が大きなビジネスチャンスだと知った喜八郎は、さっそく「大倉組」を設立。日本企業としては初の海外支店となる事務所をロンドンに開設するなど、その後、日本屈指の財閥となる「大倉財閥」への第一歩を踏み出しました。

大倉喜八郎の盟友
 喜八郎は40歳の頃、生涯の友、盟友というべき渋沢栄一に出会います。この後、二人は日本の将来を見越し、現在に続く多くの企業を設立していきます。
 喜八郎は後に「渋沢さんが多数の人と、苦楽を共にするという精神でやってきたおかげで今の日本がどれだけ発展したかしれない」と尊敬の念を込めて語っています。
 喜八郎の盟友として、もう一人忘れてはならない人がいます。それは安田善次郎です。
 安田善次郎もまた、喜八郎と同じように越中、富山から江戸に出て、玩具店や鰹節店兼両替店での見習いを経て独立。安田商店、安田銀行と金融業に軸足を置き、事業を拡大。現在のみずほフィナンシャルグループへ続く企業群の礎を築きました。
 安田善次郎は、他が融資に及び腰でも、自分で事業内容を見極め「これだ」という事業には積極的に融資し自らの事業を拡げていきました。喜八郎はその姿を見て、安田善次郎のことを「勇気の人だ」とたたえています。

戊辰戦争で使われた銃

渋澤栄一
(所蔵:国立国会図書館)
安田善次郎
(所蔵:国立国会図書館)
「ホテルオークラ東京」敷地内にある「中国同盟会発祥の地」碑

日本の社会インフラ作りにも足跡を残す
 喜八郎は日本の近代化に欠かせない国内のインフラ事業にも目を向け、足跡を残しています。
 1871年には日本最初の鉄道である新橋、横浜駅間の鉄道建設のうち、新橋駅建設の一部を請け負いました。これをきっかけに本格的に土木事業に乗り出し、日本各地の鉄道建設に参画しています。
 同じころ国際港である横浜の水事情の改善をすべく、横浜の高島嘉右衛門らと水道会社の運営にも乗り出していました。
 1872年に起こった銀座大火後の復興工事では、銀座を不燃の町にするためレンガ街として復興させる工事の一部も請け負います。
 1882年には、現在の東京電力へ続く東京電燈を設立し電力事業にも参画します。電気の可能性を広く知ってもらおうと、銀座の大倉組商会事務所の前に日本初のアーク灯を点灯させました。
 1885年には渋沢栄一とともに東京府から東京瓦斯局の払い下げを受け、ガス事業にも参画しました。

「ホテルオークラ東京」がある場所は現代中国の出発点となった
 喜八郎は、現在の熊本県荒尾市出身の社会運動家、宮崎滔天(とうてん)の紹介により、革命家で、後に辛亥革命によって中華民国を建てた孫文と出会います。
 喜八郎は「中国で近代化と民主化を進めたい」という孫文の思想に共感し、支援に乗り出します。孫文や宮崎滔天が関わったフィリピン独立革命も支援するなど、以後、表に出ることなく孫文の活動を支えていきます。
 1905年には、清朝打倒を目指し、辛亥革命の契機となった政治結社「中国同盟会」が東京で結成されましたが、結成が宣言された場所は大倉邸内、現在の「ホテルオークラ東京」がある場所でした。また、辛亥革命後の1912年には、辛亥革命臨時政府に対する300万円の借款に、喜八郎は応じています。この額は当時の日本政府の歳出額の0.5%に相当する巨額なものでした。

大倉財閥による中国大陸(満州) への投資
 喜八郎が中国大陸への投資を開始したのは1902年(明治35年)ごろからです。
 大正期、第一次世界大戦のころ、大倉財閥による中国大陸への投資は、さながら「投資ラッシュ」の様相を呈しました。
 喜八郎は特に、本渓湖、現在の中国遼寧省本渓での事業に力を入れました。本渓湖は石炭、鉄鉱石、石灰石など、製鉄業に欠かせない資源が採れる世界有数の製鉄に適した場所です。
 事業は石炭採掘からスタートし、その後、製鉄を開始。本渓湖煤鉄公司(ほんけいこばいてつこんす)という製鉄の一大コンビナートを作り上げました。
 大倉財閥による中国投資は、他の財閥に比べ群を抜いており、最終的には総資産の75%を投資していたといいます。しかし、第二次大戦での日本の敗戦により、大倉財閥は中国に投資したすべての資産を失いました。
 喜八郎が力を入れた本渓での炭鉱、製鉄などの事業は、第二次世界大戦後に接収され、中国の本渓鋼鉄集団有限責任公司(ほんけいこうてつしゅうだんゆうげんせきにんこんす)として復興し、中国における鉄の生産拠点となりました。
 現在、本渓鋼鉄は、中国の鞍山鋼鉄集団公司(あんざんこうてつしゅうだんこんす)と提携し、世界第3位の粗鋼生産量を誇る企業集団の一翼を担っています。

喜八郎は新しい時代の日本の都市作りに貢献した
「東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」
(所蔵:東京都立図書館)
孫文

喜八郎はなぜ中国大陸へ投資し、孫文を支援したのか?
 喜八郎がなぜ中国大陸への投資に他の財閥より積極的であったのか、そして、孫文の支援に乗り出したのでしょうか。
 その理由として、喜八郎の事業戦略が海外貿易中心の商事部門へ偏り、鉱工業部門への進出が他の財閥より遅れており、遅れを取り戻すために中国での鉱山開発などの事業に多額の投資を行ったことなどが指摘されています。
 孫文を支援した理由は、中国大陸への投資の保険です。つまり、今後、中国大陸で政権を掌握すると思われる革命政府とのつながりを、どこよりも先に作っておくうという、あくまでもビジネスとしての付き合いです。
 しかし、これだけでは説明しきれない側面もあるように思います。
 大陸への投資は、他の財閥に対する遅れを取り戻すとはいえ大正末には総投資額が2,800万円に上りました。この額は当時の日本政府の歳出額の約1.8%に当たる巨額なものです。このような巨額の資金を政情不安な地域へ投資する、さらに、革命政府への借款は、革命が失敗すればすべて焦げ付くものでした。
 ビジネス的な動機だけでは説明がつかない行動ではないでしょうか。

「共に大きく豊かになる」
喜八郎が思い描いた世界への道のりはまだ半ば

喜八郎が、ビジネスを通じて実現しようとした世界
 喜八郎の生涯を振り返ると、封建体制のもと武士が一番という社会に嫌気がさし、江戸に出てきました。そして、実業の世界でチャンスを掴み、自分の働き場所を拓いてきました。
 その実業の世界では、藩閥中心の明治政府に食い込み、封建時代からのつながりを引きずるように動く三井、三菱に対抗して個人の才覚で政府とのつながりを作ってきました。
 喜八郎のなかには体制、大きな組織に対する反発のような気持ちがあったのではないでしょうか。そして、この反発の気持ちがビジネスの原動力になっていたのではないでしょうか。
 さらに、渋沢栄一の「多数の人と苦楽を共にし、利益を分配することが大切」という考えや、安田善次郎の「他が融資に及び腰のような事業でも自ら見極め『これだ』というものにはどんどん融資する」という姿勢に共感するなど、その根底には「ともに大きく、豊かになる」との思いがあったのではないでしょうか。
 喜八郎は、孫文や宮崎滔天のような革命家ではありません。あくまでもビジネスマンです。しかし、根底にある「ともに大きく、豊かになる」という想いが、孫文や宮崎滔天らと共鳴し、それを実現する場所としての中国大陸があったのかもしれません。

喜八郎は互いに連携する経営を目指した
(大倉集古館にある大倉喜八郎像)

「王道」の経営者、大倉喜八郎
 孫文は1924年、神戸で大アジア主義演説を行います。その中で「西洋の文化は物質と力を中心とする『覇道』に基づく文化である。一方、アジアの文化は精神と融和を中心とする『王道』に基づく文化である。我々は西洋の『覇道』文化を学ばなければならないが、それをもって人を抑えるのではなく、アジアの『王道』文化で互いに連携していかなければならない。」と述べました。
 大倉喜八郎は、一般的には「覇道」の経営者として語られることが多いように思います。しかし、これまで見てきたように、彼の歩み、考え方、そして孫文の思想に共感していたことを踏まえると、根底には『王道』の考えをもち、互いに連携していく経営を求めたのではないか。そのような思いが湧いてきます。
 事業スケールの大きさだけでなく、簡単には読み解けない想いの深さが、大倉喜八郎が今なお人々の間で語り継がれる理由なのではないでしょうか。
 大倉喜八郎は1928年、波乱に満ちた生涯を閉じました。

福岡にゆかりのある人々と大倉喜八郎
 大倉喜八郎と人のつながりを調べていくと、福岡周辺にゆかりある人々と喜八郎が、間接的につながっていたことが見えてきました。
 このつながりをみていると、資本主義勃興期の厳しい競争の時代の中で「社会はどうあるべきか。人はどう生きるべきか」と問い続けた大倉喜八郎はじめ、当時のリーダー、そして、その時代に生きた人々の姿が浮かび上がってきます。

大倉喜八郎と福岡にゆかりのある人々が間接的につながっていた!

<主な参考資料>

▪️大倉喜八郎について「怪物商人 大倉喜八郎伝」
▪️江上剛 著、2013年、株式会社PHP研究所 「致富の鍵」
▪️大倉喜八郎 述[他]、1911年、丸山舎書籍部 「大倉鶴彦翁」
▪️鶴友會編集兼発行者、1924年、鶴友會 「大倉喜八郎」
▪️東京経済大学「大倉喜八郎の足跡を追う」
https://www.tku.ac.jp/tku/founder/okura.html
▪️東京経済大学「大倉喜八郎にみる類い稀なベンチャー精神」 大成建設140周年記念対談
https://www.tku.ac.jp/tku/founder/footprint.html
▪️「大倉喜八郎にみる類い稀なベンチャー精神」 大成建設140周年記念対談
▪️村上勝彦(東京経済大学教授)×大倉喜彦(中央建物株式会社社長)https://www.taisei.co.jp/140th/ourfounder/interview.html
▪️「大正・昭和初期の大倉財閥」〜成長から停滞への転換を中心に〜中村青志、「経営史学」、第15巻3号、東京経済大学
▪️「中国同盟会成立記念講演会について」村上勝(彦東京経済大学教授)
file:///C:/Users/spac7/Downloads/20221115125925_7ed2d3454c5eea71148b11d0c25104ff.pdf
▪️「中国に愛されるホテル経営を目指す」人民日報海外版日本月刊 2021年12月20日
 荻田敏宏 株式会社ホテルオークラ代表取締役社長
https://peoplemonthly.jp/n6137.html
▪️「再開業したホテルオークラ、中国革命の故郷だった」日本経済新聞電子版 2019年9月14日
▪️「大倉喜八郎は中国で何をやり遂げたか?」新潟・佐渡の過去現在未来
http://blog.livedoor.jp/mangetu_m03/archives/1246512.html